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(無題)

 投稿者:  投稿日:2014年 2月28日(金)18時16分2秒
返信・引用
  無声の子宮から音声の産声があがったとき母体である無声は死んだ。音声は父である映像と暮らさなければならなくなった時、それは運命的に折り合いの悪い関係であった。映画という家族は既に崩壊していたのである。

キネマティカル・エディプスコンプレックスとでも言おうか、その時から音楽は映像を殺すつもりでいたのだ。

単純に音楽が映像との役割の分量を逆転させたとき、人はそこに皿一派の福神漬けの横に申し訳なくおかれたカレーライス、漬け物一杯の丼に添えられた四分の一口カツ、またはお重一杯の山椒の粉に埋もれたうなぎの皮でもみるだけであろう。また本当の意味で音楽が映像を殺してしまえば、そこに残るのは音楽つまり=音楽で映画とはなりえない。

ではここで、イージーライダーとニシノの映像と音楽の関係に戻ってみよう。
 
 

(無題)

 投稿者:  投稿日:2014年 2月27日(木)15時41分59秒
返信・引用
  『新興国家の隠喩』の著者マイラ・ガードナーは、相反する国家戦略を持つ二つの隣国の間には経済的な成り立ちの根幹にそれぞれ決定的な誤謬をももたらすと記している。国民として期すべき物は何もないがために相違はないがしろにされる。ゆえに希望に似た何かが空気の中に醸造され口から入り込むため、肺が冒され、もはや精神的な呼吸は不可能である。管楽器の叙情性の体現は抑制されて、代替案として2国間で詩のやりとりはなされるが、それは裏帳簿のような物であり、数字、隠喩は示されることない。未来の計算は却下されたままである。

ただ私は、イージーライダーとニシノの比較をこの2国間のやり取りに二乗させることにより、映画の方法論としての打開策を示していきたいと考えている。
 

(無題)

 投稿者:  投稿日:2014年 2月27日(木)12時25分49秒
返信・引用
  私の知り合いの映画批評家に40年来グレムリンと様々な映画との比較を続けていた一風変わった男がいた。

様々な映画を必ずグレムリンと比較する事で、固定された視座から浮かび上がってくる彼独自の映画理論の輪郭が見て取れた。

そしてその輪郭は毎回かならずグレムリンに近い形をしているのである。ただ彼はグレムリンを一度も観た事はなく、周りの友達が観ていたのに自分だけが観れなかった悔しさがこの活動につながっていると語っていた。

彼は10年前に亡くなり、当時の彼の年齢を私自身がゆうに超えてしまった。最近彼の研究成果に目を通す事が多くなり、当時は理解できなかった彼の考えは、乾きすぎた喉に注がれる薄めすぎたカルピスのように、私の中にすんなりと染み渡ってきている。

私は今この手法をイージーライダーとニシノの映画の比較において用いてみようかと考えている。
 

(無題)

 投稿者:  投稿日:2014年 2月27日(木)11時54分15秒
返信・引用
  映画に関する解剖で私が背筋が凍るほど恐れ戦いたのは、とあるフィルムメーカーが彼の敬愛する小津について語った内容で、小津の話しは「娘が嫁いでゆくといった出来事が多い」と語った一節である。そこで彼は小津を完全に解剖しまたもとの形と寸分違わず(しかもより小津らしく)縫い合わせていたからである。

果たしてイージーライダーとニシノの比較解剖において果たして私にそこまでの解剖が行えるだろうかという恐怖が今全身をふるわせている。

クレジットの問題、これは映画のみならず音楽しいては芸術全般の普遍的課題でもある。

先の佐村河内のスキャンダルと今回のニシノ映画のクレジットの問題は、コインの裏表である。だがここで時事ネタに比して私のオペを行う事はよしておこう。メスをふるった後に、生命をつなぐ為に縫い合わせる性能のよい糸は持ち合わせていない。マニー社製の高性能な縫合針でもあれば話しは別なのだが。

執刀するものは切り刻まれる身体の痛みを自らの精神の苦痛に置き換えなければいけない。さもなくばそれは(本人の意図とは関係なしに)合法を装った殺意に、しいては殺人に限りなく近づく。非執刀に近づき患者と執刀主の関係性が希薄に近づくに比例しより感度の高い解剖に近づくのである。

ある映画のタイトルのように、人のセックスを笑ってはいけないを簡単に笑ってはいけないのである。それはあなたの陰部を脳化する行為であり、映像に対する精神の屈服を意味する。そこで音楽は映像に対する点滴ではもはやあり得ない。

ロードムービーの結末の五割は死である。その旅の途中で巻き添えをくらい死んだ登場人物の致死率はもはや10割であり、映画の九割以上はヒットしない。だがほぼ100%の映画は解剖にさらされているのである。この現実から私は目をそらさないでいようと思う。
 

(無題)

 投稿者:  投稿日:2014年 2月27日(木)10時51分45秒
返信・引用
  たとえばであるが、ETやNEVER ENDING STORYだとかTOP GUNなど墓石に縦彫りで記されていたら鎮魂の念を持つだろうか?BACK TO THE FUTUREにいたっては、(私の大嫌いな)ブラックジョークでしかない。しかもパート2や3まである事に関しては噴飯ものである。人生にパート2や3はないからである。

すべての映画は、人間的な奥深い業を解決するための回答は(残念ながら)用意されていない。映像と言う名の墓地に一つ一つ墓石を増やすのみである。また実際に都立霊園にお墓を持つのがかなりの難しさを持つように、もはやその映像の墓石を立てるのも至難の業である。

だから海外の日本映画ファンは鎌倉に小津先生の墓をたずねて来日する。そこには個人が眠っているから。しかし我々はジャンルこそ違えどシド・ヴィシャスの墓参りを一度でもしただろうか?否。

だが私たちがセックス(このような単語を私は普段口にしないのだが)ピストルズの音楽に感化された若者が首にチェーンをまいた姿を目にするとき、それこそがマスメディアと映像と音楽の実に本質的で象徴的な(そして絶望的な)関係なのである。そして(ここは特に強調したのだが)絶対に品質は補償されない。

狭くなった墓地の周辺、茂みの方へ追いやられて行くと、映像はそこでポルノにより近くなる。周辺はゆったりと拡張を続けるが、茂みの中で音声は社会的通念によりミュート気味になる、あえてボリュームを上げてみるが、それが墓地中心地の静寂と神聖化をますます担保することになり。映像はついに画面から飛び出した。自体はもはや深刻である。次元の不正使用、色彩の浪費、無声回答の困難。

話しは戻るが、イージーライダーのフォンダ/ホッパーとステッペン・ウォルフの関係と、ニシノと楽団の関係はロードムービーである点とそうでない点をのぞけば、キャラクターが登場するシーンで音楽が流れるといった意味で驚く程似ているのである。

私の比較解剖が間違いでないのなら、それらの映画には確実に音楽が流れていた。
 

(無題)

 投稿者:  投稿日:2014年 2月27日(木)01時13分55秒
返信・引用
  ここでイージー・ライダーとの共通点を書き連ねた所で鼻で笑われるだけだと分かっているのであえて深くまでは、ここには書かない。が、あのやや軽率なヒッピー映画と簡単に比較した場合、カウンターカルチャーとしての視座においてに大きな隔たりはあるが、どちらの映画にも共通するのはイージーのフォンダとホッパー、この映画のニシノともに性別を同じとしているところである。またそこに女性のキャラクターが物語に時折やや大胆に(性的な部分も含め)関与してくる点などに特に強い共通点が見られる。だが結論から言うと時代も国も異なるが最も大きな相違はあのアメリカ映画が大々的にバイクをフィーチャーしているのに対しニシノはそれには特に深くは関与していない点であろう。だがこの明確なコントラストの中でこそ比較映画解剖学のメスは光を増すのである。だが忘れては行けない事が一つある、実際には映画にはメスを受け入れられるような肉体と感情はない、プロットで作られた役割の不明な臓器の連なりだけが存在する。また映画音楽一般に関して言えばそれは、撮影が行われている時に同時に記録されているわけではなく、まったく関係なしに別に録音された音楽が映像に被せられている場合がほとんどである。また同時に録音される場合もあるが、どちらもそれぞれに違う欠落(しかも決定的な)を抱えている。イージーとニシノの映画の話しの内容やセリフがそれぞれ違うように。  

安愚楽鍋

 投稿者:  投稿日:2014年 2月26日(水)18時17分3秒
返信・引用
  先送りする欲望と資本主義 #haiku

アンダーグラウンド自体に意味はない #haiku

アンダーグラウンドはアンダーグラウンド以外の者の欲望である

アンダーグラウンドと自らを定義する者は最もアンダーグラウンドから遠ざかる者となる

アンダーグラウンドは自らをアンダーグラウンドと思っていない者が名指されることによって出現する

アンダーグラウンドへの欲求は経済的な豊かさに付随する

アンダーグラウンドへの希求は、本来開かれたコミュニケーション・ネットワークの中に敢えて棲み分けによる辺境を作り出そうとする

"アンダーグラウンド"はコミュニケーション弱者を装い、検索によって満たされる。

アンダーグラウンドは資本主義の欲望の先送りのために開いた穴である

psfは「欲望を持ちたい欲望」に訴えかけ、アンダーグラウンドへの依存を作り出すシステムである

アンダーグラウンドへの欲望は、浜野の一握りのレコードリストに似せて形作られ、媒介されている

アンダーグラウンドへの欲望の満足は、モダーンのリストによって媒介されるほかはないものである

アンダーグラウンドは資本主義の大英博物館的な収集の欲望によって形作られたが、そのリスト作成にはセゾン文化が寄与した

目利きとしてのpsfの神話性により、モダーンに認知されることが"アンダーグラウンド"の第一の目的となっていった

"アンダーグラウンド"の特徴は、欲望の物差しとしての価格の変動である

"アンダーグラウンド"のレコードを売り買いするとは他者としての自分を売り買いすることに等しい

アンダーグラウンドというシニフィアンは象徴界で資本や性と隠喩的な結び付きを持つとき以外は意味を持たない

ベルベッツはアンダーグラウンドだったから認知されたのではなく、アンダーグラウンドという抑圧された発音をシニフィアンとして持っていたから忘れないように覚えておこうとして覚えられたのである

つまり、ベルベッツは駄洒落として認知されたのである

 

(無題)

 投稿者:  投稿日:2014年 2月24日(月)18時54分45秒
返信・引用 編集済
  ゲイリーや七尾の仕事は、楽団のような象徴界ではなく、社会の基本的なきずなである想像界に属する。多数に就こうとするゲームの果てに、いつも幻の絶対多数者の像が浮かんでいる。


自己が自己へと還ってしまっている彼らの想像界の仕事の傍らでは、楽団の象徴界の分裂の運動が繰り返されている。
「最後はポップな曲で終わりたかった」という井口の言葉は、映画の起源が、その分裂の果てから望まれた姿において、名残りとしての同一性を保とうとする運動を表している。


映画の起源、現に在る映画、その2つの違いを知として内包している映画、という象徴化の繰り返しが映画の螺旋状の美学のフィボナッチ係数を形作る。そのとき、映画の現存在を対象αとして見出だしたいという情熱は、黄金数として表せる。

ニシノは自分自身の無限値である対象αを、自分自身にとっての不可能性としてしか内包できない。だから彼の親密は内密ではなく、外密(エクステイミテ)と呼ばれるだろう。外部でありながら最も「内密」な親しさを要求するものであるからだ。

ニシノが関係を結ばざるを得ないような外部を現実界と言う。起源において、在ったはずのニシノ自身が、悦びの名残りとして、更なる象徴化を求めている。ニシノは、その求めに応じて、無限の果ての現実界へと踏み込んで行くのである。


ニシノと女たちの美しさについてのTLの皮を剥いだら、崩壊した姉の乳房の、「命のしかめ面」とでも言うしかない不気味なものだけが残されるだろう。


映画の究極は無限の「長回し」に晒されることである。そこにおいてのみ、映画は映画の絶対的な他者となり、映画の起源の現実を、黄金数として享受していることだろう。カメラはその誕生から鏡像段階を先取りし、映画を死の次元から眺める悦びを、早くも覚えてしまったのである。


名前のない楽団の主体(シュジェ)は自分自身を外から見るための媒介を持っていない。一方的に楽団のことが話されているが、他者の語らいであるTLは楽団の外側にあり、言葉は自己言及を起こして楽団に不決定の苦しみを味わわせるだけである。

他者の世界の一角にカメラが現れる時、楽団はやっと自己認識を得るが、それは、大文字の他者の言語活動によって、統一された鏡像の裏面に過ぎなくなる。


だから楽団にとって大事なのは、大文字の他者から見た自分自身の後ろ姿に、いつも触れていることであり、カメラに向かっていることではない。

楽団の参加者、楽団、この映画の音楽部分、この映画、全ての映画、これらは全て象徴化された「一」として構成されている。大きな「一」の中に「一」が「一」として存在しようとすると、それは黄金数にならざるを得ない。

そうした、集合とその要素という二つのレベルの「一」を繋ぐ「一の線(トレ・ユネール)」が成立するのは、主体自身が言語に関わるや否や、メタ言語は無い、と言えるからである。


集団と主体との間の同一化は滑稽味を帯びて現れる。なぜなら、「一の線」は、大文字の他者の論理体系としての自己言及の無力が、暴露されているような場であるからである。


映画の犬はニシノが他者になるための同一化の通路、すなわち「一の線」なのである。


ファルスのある者とない者との関係を表現する定式を与える権能を持った者は、映画の外側に位置する。だからいかなる形であれ性関係は撮影されない。


それにも関わらず映画が撮られ、楽団が演奏した理由、それは、愛について話すということは、いつになっても、悦びであるからだ。










 

500ラカン

 投稿者:  投稿日:2014年 2月22日(土)22時44分57秒
返信・引用 編集済
  評判の悪い長回しに本音のあったりする商業映画

お前らにとってかっこわるいものが俺にはかっこいいものなんだ

ぼくらがいくら盛り上がっても世界はもう分断されているのだ

蓮見の評が気になり3月号の群像立ち読みする2月


あの映画は<楽団だけが><アカデミー賞もの>で、あとの部分は<そのパラフレーズに過ぎない>、とか誰か書いてくんないかな #jtanka






死ねよシネフィル #7


淫行と幽霊を許容する映画に名前を出すわけないでしょ

映画館色とりどりに貼られた〈倫理〉ソドムでスタアになってどうする

音楽も現像液に浸されて作品となり死んでゆくのか

ネタバレと言うより妬みをバラしてるだけではないか死ねよシネフィル



タフなスタッフ
あたふたと
防戦しつつ
進みゆく

音楽も映画も超えてとめどないメルキゼデクのような楽団



女は誰も子供が欲しいとか言わない
(ニシノが彼女たちの女の子だから)
ニシノだけが女の子が欲しいと言う
原作ではニシノは死んだ姉になって女の子を産みたいとまで言う
(ニシノは姉の母乳を飲む)

みなみの母の夏美と原作のしおりの〈出ていった〉母は合成されている

ニシノが夏美だけに会いに来たのは、夏美がみなみを産んで母としてのシンボルとなり、実体としての女たちの列から外れているから。

原作のしおりはニシノと手を繋ぐと違和感なく自分の体と同じように感じる

だから女たちはニシノと手を繋ごうとする

カナコは子供のみなみと同じようにニシノと手を繋いだまま〈無限の前で〉腕を振る

まなみは手を握られてびっくりするが書店では自分から掴む

人間の欲望は他者の欲望であるとラカンが言うような意味で、ニシノは女たちの欲望を無意識において担うが、欲望を交換しようとはしない。たとえ女が死んだ姉と瓜二つだとしても。

俳句の切れとは「せき立て」を捉えることにある。人間たちは互いに人間であるために互いの間に自分を認める。「せき立て」とは他者に先んじて自分が「人間」であると断言しようとすることにある。

切れは音速を越えなければならない。

PSFとは差別と切り捨てのシステムであった。

PSF的人格とは即ちパラノイアであった。

川上弘美が「男に背中はない」と言うのはこの意味に於てである。鏡を使っても見ることのできない自分の背中、これを対象αと言う。ニシノがしがみつく対象αは、姉の乳房、風呂は一人で入る、声、まなざしである。

短歌に於ける「せき立て」が中澤系、と言ってもいい。

ニシノのセッションに於ては、「せき立て」は、「人間ではないもの」が、「やがてそれは必ず喪失される」という形で割り込んでくる。それが恋の出口を意味する。

終わりなきバンドとは限界がない、とめどない、ということだ。

ニシノは時間のとめどなさに泣くのである。

御中が定型を切れによって分析するのは、セッションの果てしなさを句切ることと同質なのだ。

対象αの浮上によって生を句切ること。

ニシノが女たちをどう見ているかということが、ニシノが女たちの中で何であるかということと等しくなるとき、女たちはニシノにとって黄金数だということになる。それは美しい関係であるに違いなかった。

女たちの中に対象αが感知されるとき、ニシノ自身が隣人愛としての黄金律をもってニシノを見ていることになる。

ニシノが女に見えるのはそのためである。ニシノから見た女たちは、ニシノと女たちを合わせた全体から見たニシノに等しい。

マナミは対象αを獲得したとき、「ニシノが幸せでありますように」という儀式を行ってニシノから離れた。ニシノはそれを助けた。セッションの終わりである。

そのとき自己同一性を獲得したマナミは「1」でありニシノは超越者にとっての黄金数である。ニシノは永遠に「1」になれない殉教者である。

ニシノにとっての対象αの崩れは姉の乳房や糞便によってではなく、楽団の揺れによって表されている。

ニシノにとっての女たちは大文字の他者ではない。ニシノの性的な欲望の形式は、姉を通した大文字の他者の認知を欲望することである。

ニシノは自分で失われた子供時代を再構成しようとはしない。ササキサユリの話をみなみが再構成するのを母親が確認する、という周到な構成がなされている。ニシノの黄金比のために最低三人の他者が必要だったのだ。

トラウマを抱えているにもかからわず、ニシノの恋愛には何故か「事後性」がない。振られた方なのに堂々としている。原光景という外傷は専ら葬儀に参列する戦友としての女たちの、ニシノが失われたという事後性にのみ表れるのである。

だからこの点ひとつとっても、これは女たちのための映画なのだ。

ニシノは女たちの経験の中にしかいない。楽団の名前は消し去られ、経験そのものとしての映画だけが残る。楽団はこの映画の境界である。楽団の音楽はこの映画の外側にあり、映画の裏張りをしているのだ。だからみなみは楽団の前で倒れるのだ。

ニシノは嘘をつかない。カノコとまなみが鉢合わせしても受け入れる。ゆえにニシノは精神分析やコギト、ヴィトゲンシュタイン、言語論の言うところの主体ではない。つまり人間ではない。

井口は犬と猫を厳密に分けた。墓は金魚から犬になった。そこに竹野内は注目した。これらの小道具は無意識とシニフィアンの関係を構造上徹底させようとしてのことであった。

シナリオは原作の誤認という自我的な見地から見たとき初めて合理化される。それが開かれた裂け目としての犬猫の象徴的侵入だ。

下手な楽団が悪意に取られるか微笑ましさと感じられるか、同じ音の情報から感情が形成される、機能不全家庭の成員としての人間の必然。

I hereby declare that any anonymous brass bands in movies are mshb. #art

ニシノが確かに存在しているかのように振る舞っている女たちの中に楽団は産み落とされる。そして楽団はその語らいに参加することが出来ない。楽団と女たちとの出会いは、そのような無力な受難として開始される。

楽団が存在するということは映画の外のものによって支えられなければならない。その支えは女たちの外側にしか求められない。

無力な受難として、女たちの語らいを身に受けているだけのニシノは、女たちの語らいの中に埋もれている。ニシノはもう何も話さず、他者の語らいのざわめきに耳を済ますだけとなり、自分が生きているか死んでいるかをもう問わないだろう。

みなみだけに聞こえる楽団は、みなみにとって大文字の他者であり、ニシノにとっては無意識の表象物であり、女たちにとっては風の音と同じものである。

他者の語らいの中で見定めようとする、とめどなく寄る辺ない自分の位置を映し出すのが夢であり、映画全体がみなみの母の夢かもしれない。

冒頭の三羽のトンビは語らう他者たちの声、意味の衣装を脱ぎ捨てた裸の声を表している。夢の中でみなみの母は他者の語らいを語る主体であることをやめ、むしろその語らいを受けている受難の座に戻ろうとする欲望を回復する。みなみの家は自分の家なのだ。

葬式場面でニシノは楽団の意味ではなく欲望を伝える。楽団はみなみによってのみ存在する。

みなみは、欲望の対象αとして、すなわち、生命体として設立されたとき自分が大文字の他者にとってそれであったようなものとして、そしてまた、この世にやってくることを欲せられた者としてあるいは欲せられなかった者として、再び生まれ直すべく呼びかけられている。

生まれ直したみなみが、もし母の欲望によって自分自身を所望し、手に入れるならば、みなみは母の欲望のあり方を、自分の欲望として取り込むことになるだろう。それがラストシーンの「ただいま」なのだ。

ニシノに与えられている自由は死だけである。女たちの欲望に、自分の死の可能性によって断念を迫ることしか彼には残されていない。ところが心中の誘いや幽霊になって会いに来るという約束によって、ニシノは死さえ管理されているように見える。

従って死は近代的な自由にすぎないのであって、むしろ徹底して女たちになったニシノこそ対象αとしての自由を獲得するのだとも言える。

井口はニシノの造型にガンジーを読んだと言う。五十代のニシノの無様は省かれる。徹底的な放下による即天去私をシナリオのニシノは目指すことになる。

ニシノにとって姉としての女は死である。
ニシノは自然、女たちは精神分析家、カメラの視線は分析を受けているみなみを通した母の視線である。精神分析家の中に、なにかしら死を見るような気がしてくる。と、やがて分析を受けているみなみ自身の姿としてニシノの死が母の目の前に現れてくる。
という映画を観る私たちの視線が誰と一致するかによってTLが形成されているのだ。

大文字の他者が失われた状況で、人間は一人の他者である。生きねば、とはともかくも他者として生きねばということである。そのためには大文字ではない他者の語らいの中を泳いで行くしかない。それが9.11以降のリベラリズムの浅薄な実相である。

みなみとニシノの「だるまさんが転んだ」が校門前で進行してゆく。遠ざかりや消失を表す「転んだ」と現存を表す「だるまさん」がみなみのトラウマとして強迫的に反復される。そのためにみなみは学校へ行かず、葬儀場へと向かうのである。

母親との別離と再会というトラウマがニシノを鏡とすることによって再演されているのだ。

ニシノは母の象徴である。ニシノが止まるときみなみは母の手の中に自分が在ったということを、ニシノに背を向けて歩いているときは母が自分を捨てたことを象徴させている。

みなみに対する母の欲望は、ニシノに対するみなみの欲望となってみなみの心の中に設立されるのである。

しかしみなみはまだ自分は母を欲すとは考えていない。みなみはまずニシノを欲す。それは統辞構造としての「母はみなみを欲す」の象徴なのである。電車でニシノによりかかっているのはみなみではなく麻生久美子なのだ。

みなみに「母は自分を欲す」が到来するのはニシノが消える時である。

このときみなみは、流星として投げ出される物件、すなわち対象αへと化しているはずである。

なお、「自分母を欲す」という統辞構造はついに生まれないままにままになるのだから、ここで母は欲望の対象としては否定されることになる。こうしてみなみは新しい「ニシノ」と廊下でぶつかり、川上的、少女漫画的にデートする続編の「母」になるのだ。

楽団は音楽担当として名前をクレジットされるとき殺害される。
楽団が映画という他者の立場に立って自分自身を欲望するとき、その欲望の対象である経験的実在としてのバンドは、象徴としての言語という概念的把握によって生命を抜き取られることになる。

楽団員は役者を装い、バンドのクレジットを消し去ることによって自分自身の存在を消し去り、一組の言語的要素、すなわち対のon/offという拍の対が活動することを許容した。この音素の対が、映画内音楽としては消え去った存在と関係を持って、その存在を、再現させたり再び消去したりするのである。

フューネラル・マーチのリズムの二拍目の遅延の秘密を象徴的言語活動として演奏の中に導き入れたことによって、バンドは、自分の存在の核と言うべき部分を、言語としてのリズムの二項対立的な活動、すなわち在と不在の活動に、委ねることになる。

この委譲は、リズムの秘密としての言語という他者の中へ移行することによって、失われつつあるものとしての自己を把握することであるから、死という観念を呼び醒まさずにはおかないものである。

キネ旬で金井が楽団を「小人の女たちに見えるアングルで撮られている」と評したのは、その殺害の匂いを感じ取ったからにほかならない。

リズムの反復は、映画音楽として不在になることと再び音楽として在ることとを能動的な行為に変換する。映画音楽としてのクレジットという「物」としてのエンドロールを消し去り無化するという行為の重みとそこに含まれた自己の死の表象から、他者としての言語の永続的な作用が見てとれる。

楽団を映画の外から見る対象αの在と不在とが、リズムの二項対立へと、楽団の主体の中で結びついた。それはすなわち、クレジットされないことで殺害された楽団の内なる「物」が楽団の中で一つの対象となり、この対象に向かって言語的に分節化された映画の欲望が設立されるということである。

「物」としての一拍目は、言語に基づく永遠の欲望としての二拍目が存在するために、必ずそれに先行してなされていなければならなかった、一つの殺害の結果としての対象を表していたのである。

欲望の永遠化とは、こうして映画言語という他者としての井口の欲望が楽団の欲望として主体化されることなのである。それが象徴界つまりサンボリックとしてのホラーなのだ。

女たちの死を、言語としての楽団=ニシノの作用によって象徴化する試みがこの映画であると言える。女たちは、現前と不在とが互いに他を呼び出すようなこの構造的交代を繰り広げることに、文字通り己れの時を捧げているのである。

ニシノの欲望が姉の欲望になるという変換のプロセスが実現するために、女たちは無化される。女たちは投げ出されることによって、姉の胎児である筈のニシノ自身として殺される。

ニシノが欲望されるべき対象としての生まれ直した自分を見出すが、それは常に失われた対象αである。対象αの最も重要な規定は、まさに女たちが永遠に失われているということなのである。

夢の中で次々とニシノにとっての対象αである女たちが見出される。しかしその女たちを見出しているのはニシノではない。ニシノは阿川により、阿川はみなみにより、みなみは母により、対象αとして見られているのである。映画自体が一つの反復強迫としての夢なのである。

失われた女たちのみが、対象αとして黄金数の位置にある。欲望を介してニシノが姉になるということ、それは、姉の胎児に対してニシノが持っている関係が、ニシノに対して女たちが持っている関係として、象徴化されるということである。

象徴化されるということは、姉と胎児、ニシノと姉、みなみと母、楽団と映画、、阿川と母、井口と女優たち、といった関係が、ニシノと女たちとの関係によって置き換えられるということだ。

楽団の鏡像自己は撮影者によって担われるようになる。その向け換えの結果、鏡像自己の統一性が有していた価値は、そのままカメラの中へと疎外される。すなわち、楽団に帰属するはずの価値はカメラによって掠め取られ、映像の中でしか存在できなくなる。
このとき楽団は、バンドがもともとそうであったところの不統一な内的知覚への準拠を打ち消し、鏡としてのカメラに映る統一性を、カメラから取り戻す試みに熱中する。この主張はパラノイアのあり方であって、もともと不統一な楽隊であることを打ち消すバンドの熱情は、「パラノイア性誤認」と呼ばれる。
名前を消したバンドは、カメラという虚なるものの中に、初めて自己を見出すのみならず、さらにはその自己の認知を、当然のこととして映画にも要求するようになる。
映画は、統一的な見えとしてのカメラの前の楽団の自己像に対し、認知という欲望を向けてくる。
ところがこの他者である映画の欲望が向けられているのはカメラの前の虚なる鏡像なのであるし、さらにその鏡像は、向け換えによって撮影者によって担われているわけだから、楽団が経験するのは満足ではなく、激しい失望と嫉妬でしかなくなる。
こうして、名前を出さないことで、映画におけるこの楽団は、音楽における自由と狂気の実験場となっているのである。
 

「数のないので1+1がわからないロック」

 投稿者:  投稿日:2012年 6月 1日(金)01時17分31秒
返信・引用
  僕が初めて、泥水冬道氏が演奏した「数のないので1+1がわからないロック」を見たときは本当に驚いた。まず曲が始めると同時に頭を抱えてうずくまってしまった。イベンターの方が大丈夫ですかと心配して声をかけると少し安心した様子で「ええ」とだけ答え少し安心したように見えたが、その後も身動きを取らずにそのままの体勢でぶつぶつと何か呟いていらした。それからおっむろにインターネットで数について調べたりしながらなんとなくお気に入りの動画を流してみせてくれたりした。突然すっくと立ち上がると、ギターをもって片足をあげた。「それは王貞治ですね」お客の誰かが声をかけた。「ええ、ワンです」しかし広島の前田選手が練習の時するような逆手スタイルで左右の手が逆だと指摘すると若干困惑した表情を見せた。「お箸を持つ方の手を一度おへその辺り、そうですそうです、それから茶碗を持つ方の手をその上にヨッコイショしてください」今度は違うお客さんが組み直した手の中にギターのネックをねじり入れる。そして再びワンちゃんこと王貞治さんの真似をして片足をあげた。今度は誰かが長時間でもスタイルがキープ出来るように足の下にスッと椅子を押し入れる。こんどは後ろの方から「次は長島で3憶えちゃおー」皆総じて親切だ。この一体感がロックなんだよなとその日は思った。
また別の日に見た「数のないので1+1がわからないロック」の泥水氏は、マイケル・サンデルの白熱教室のように、「1+1がわからない」を講義していた。この熱意がロックなんだよなとその日は思った。
けれどさらに別の日に見たその曲はさらなる進化を遂げていた。
 

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